鞆の浦とは?

鞆の浦(とものうら)は広島県福山市の南部にある港町です。
瀬戸内海のほぼ中央に位置し、このあたりで潮の流れが変わることから、東西航路の「潮待ち港」として知られています。

1200年以上前に書かれた万葉集にもその名が書かれているように、古くから栄えた港なので、歴史、建造物、伝説など、様々なものがこの町に散りばめられています。

  • 鞆・町並みひな祭の様子4
  • 鞆・町並みひな祭の様子5

歴史

759年に編纂された万葉集に鞆の浦を詠んだ歌が八首残されているなど、鞆の浦は古くから存在する港町として、中世(1200年前後頃)には交易・軍事の要地として栄え、江戸時代(1600年以降)には、琉球使節・朝鮮通信使・オランダ商館長などの外国要人もたびたび寄港するなど、歴史上の重要地点として繁栄しました。

幕末(1800年中頃)には、坂本龍馬と紀州藩との海難事故交渉(いろは丸事件)の舞台になるなど、人や物が集まることで様々な逸話がこの町で生まれ、語り継がれています。

建造物

  • 沼名前神社
  • 古い町家
  • 対潮楼
  • 阿吽像
  • 堤防

鞆の町は江戸時代中期以降に描かれた町絵図と現代の地図がほぼ一致するくらいに昔から形が変わっていません。
つまり、昔のまま残っている建物が多く存在するということです。

京都の八坂神社の本社である沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)や数々のお寺、酒蔵(太田家住宅)、城跡、日本最古の木造2階建て町家、路地や町並みなど、歴史を感じられる建物が現代に生きています。 中でも、江戸時代に整備された港湾施設「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港だけです。

伝説&逸話

長い歴史を誇る鞆の浦には、地方の町ではありながら様々な逸話が残っています。
ここではその一部をすごく簡単にご紹介します。

ささやき橋の伝説(1600年ほど昔の話)
ささやき橋

大陸の渡来人を接待するために大和朝廷から鞆に派遣されてきた役人の「和多利(わたり)」さんと、踊り子の「江の浦(えのうら)」さん。
二人は恋に落ち、役目も忘れて夜ごと橋の上で逢瀬を重ねます。

それが噂になり、あまりに度が過ぎたことで上司は怒り、二人は抱き合えないように後手に縛られて海に沈められてしまいました。このことから、この橋は密かに語り合う場所ということで「ささやき橋」と呼ばれています。

と、いう話は大正時代に観光用に作られたとも言われていて、本当のところはよくわからなかったりします。

重盛の松(1175年頃の話)

平清盛(たいらのきよもり)の長男・重盛(しげもり)が鞆の静観寺(現在の小松寺)に松を植えました。その際に「この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残したのですが、松は横に伸びて育ち、言葉の通りか平家は滅びてしまいました。平重盛

なお、この松は、1954年に台風の影響で樹齢850年倒れてしまいました。

将軍様の信長包囲網(1576年頃の話)

織田信長(おだのぶなが)に都を追われた室町将軍の足利義昭(あしかがよしあき)は鞆に逃げてきました。足利義昭

そして、この鞆から武田勝頼(たけだかつより)や上杉謙信(うえすぎけんしん)などの全国の大名に「信長をやっつけよう!」と手紙を送りまくったのでした。

龍馬の「いろは丸」事件(1867年の話)

幕末の有名人、坂本龍馬(さかもとりょうま)が蒸気船「いろは丸」で長崎から大阪へ荷物を運んでいる途中、瀬戸内海で紀州藩の船とぶつかってしまいました。坂本龍馬

この事故でいろは丸は沈没。怒った龍馬は、沈没場所から近かったこの鞆の港で、紀州藩相手に損害賠償の交渉をはじめたのでした。
【関連】いろは丸展示館

宮﨑監督と「崖の上のポニョ」(2005年の話)

あのジブリの宮﨑駿監督が2ヶ月ほど鞆の浦の古民家に滞在していたことがあるのですが、その際に「崖の上のポニョ」の案を練ったそうです。そう思って映画を見てみると、出てくる風景などが鞆っぽいような・・・。ジブリ作品と鞆の浦

鞆の町には監督やジブリスタッフ直筆のイラストが飾られたお店もあるので、探してみるのも楽しいですよ。

鞆は港町なので、当然(?)猫がたくさん住んでいます。
のんびりと暮らせるためか人懐っこい子が多く、猫のほうから積極的に寄ってきてくれます。何匹もの子が固まって住んでいるポイントもあるので、街を歩きながら探してみるのも楽しいですよ。

歴史、建物、伝説や逸話を直接体感して猫とも遊べる。
そんな鞆の浦へぜひ一度遊びにお越しください。

鞆の浦へのアクセス方法はこちらのページ

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