「日本の一番好きな場所はどこですか」という質問をよく受けます。60年前に留学した頃から様々な思い出がある京都と答えるが、今日、原稿を書こうとして、一度しか見たことのない小さな町の名を思い出した。
「鞆の浦」に私が訪れたのは20年ほど前。船に乗り、着いた場所が鞆の浦だった。鞆の浦の町から見た景色は、正に絶景だった。目前には瀬戸内海や島々、遠くに目をやれば四国の山が美しくそびえていた。そんな景色にうっとりした私は、世界に瀬戸内海ほど美しい海があるだろうか、とさえ思った。町も美しい。細い道を歩きながら、昔の日本の町はこうだったと嬉しく思った。建物のほとんどは和風建築で、所々にある洋風建築も決して目障りではない。この町を歩くと、ここは「明治村」「江戸村」のような立体的な博物館とは異なり、本物の伝統を守っている生きた町という実感が湧く。
この美しさを人々に伝えようと思ったが、私はためらわずにはいられなかった。もし宣伝を請け負えば、次に来る頃には観光客のために、コンビニエンス・ストアを始めとする雑多な店が建つのではないかと恐れた私は沈黙を守った。しかし、結局人々は鞆の浦を発見したようだ。
観光客よ、鞆の浦を見物する時は、車やバスに頼らず、自分の足で歩いて、玉のようなこの町を楽しんでいただけないだろうか。私はそう思う。
2010年1月31日読売新聞より